【鎌倉殿の13人】第26回で久々に巴御前が登場しました。
私個人としては、すごく驚きました。
「巴御前が鎌倉で生きている??木曽義仲討死の後、なくなっていなかったんだ⁈」
歴史のことをあまりに知らなさすぎる私がいけないのですが、
あんなに木曽義仲に尽くし、武勇にたけた巴御前が鎌倉の庇護のもと生き続け、鎌倉の御家人・和田義盛と結ばれていたとは・・・
鎌倉への恨みも薄れているように描かれている。
やはり、驚きでしかない!!
調べてみます。。
巴御前と和田義盛が結ばれたいきさつ
木曽義仲は勢多・宇治川の戦いで源義経に敗れ、その後無念にも討たれてしまっています。
義仲は、巴御前が女であること、自分の最期に女がいては名折れになることを理由に、逃亡するように巴御前に命令しています。
巴御前は義仲の命に従わず戦い続けましたが、最後は信濃へと落ち延びたといわれています。
信濃に逃亡した巴御前は、源頼朝に鎌倉に来るように命じられます。
もちろん、頼朝は配下の者に処刑するように命じます。
そこで、和田義盛の登場です。
巴御前を預かりたいと申し出、頼朝に却下されても、諦めず粘り強く、頼朝が根負けするほどに訴え続けたらしいです。
自分の鎌倉への忠誠心を糧に、巴御前が謀反を起こさぬよう、最後は自分が責任をとるということでしょう。
その結果、義盛と巴御前は結ばれ、2人の間に生まれたのが3男の朝比奈義秀だといわれています。
しかしながら、木曽義仲は勢多・宇治川の戦いは1184年
義秀の生まれ年が1176年といわれているので、話のじつまが合わないな、、というところらしい。
実際はどうであったか、私にはわかりません。
和田義盛は和田合戦にて、北条義時に打たれる
結局、鎌倉の御家人であった和田義盛も北条義時に排除されてしまいます。
鎌倉幕府って、無情な世の中だったんですね。
【鎌倉殿の13人】を見てると、またか、、と悲しくなります。
1213年和田合戦で和田一族が滅亡した後、巴御前は越中に逃亡し、出家し尼になったと伝えられています。
亡くなったのは、なんと91歳。
本当だとしたら、当時としてはありえないくらいの長生きで波乱万丈の人生です。
実際はどうだったのでしょう。
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